これから社会に出る人
天職が分からない人
自分に自信がない人
講義している時にだけ見える小さな男の子
講義をする時、いつも私の目の前に、小さな子供が見える。
眼鏡をかけた小学生ぐらいの男の子だ。
その子は、私にしか見えない。
その子の存在は私にしか分からない。
目に涙をためながら、じっと私の方を見て真剣に聞き入っているその子に、どうすれば理解してもらえるのか?
私はその子が悩んでいる点を推測し、その子の知識量を元に色んな例えや比喩、事例を挙げながら解説する。
なかなか理解してくれないその子に理解してもらって笑顔になってもらうことが講義の目標だ。
その子は、子供の頃の私だ。
そう、実は講義の時、私はいつも『子供の頃の私』に解説する気持ちで話している。
理解力も頭の回転も悪く、何をするにも時間をかかる子だった私。
今でもある瞬間にふと子供の頃のトラウマがフラッシュバックすることがある。
なんでそんな簡単な問題も分からんねん!!
あんたは、授業をちゃんと聞いてたのか!
鬼のような形相で睨んで怒鳴りつけてくる教師。
時にはテキストを投げつけて罵ってくる教師。
この時の声のトーン、怒りを通り越して憎しみと呆れたような眼差しで睨みつけてくる表情。
昨日のことのようにハッキリと思い出せてしまう。
もう30年近く前の子供の頃の話だ。
相当怖かったのか、今でも年に数回は教師に罵られている夢を見る。
『なぜ分からないんだ!』
この問いかけは『悪魔の質問』だと考えている。
分からなくて悩んでいる人に、なぜ分からないと尋ねても何の回答も返ってくるはずがない。
むしろ、ますます焦ってパニックになるだけだ。
この質問は、講師の教える技量の拙さとコミュニケーション力の低さを棚に上げて、自分の感情を受講生にぶつけるだけのストレス発散にすぎない。
大勢の人が居る前でこの質問を行えば、言われた側はさらに恥ずかしさでプライドもズタズタだ。
小学生の頃、私はそんな環境に晒されていた。
私は人一倍、頭の回転が遅かったが、圧倒的な物量(時間)でカバーしていた。
だから、学校内では優秀と思われていた。
ただ、物量でカバーできるのは、同じぐらいの知能&勉強しない子がほとんどという前提が成立する学校内での話だ。
塾に通い出せば、私以上に頭の回転も理解力もある子なんて山ほどいる。
そして、塾では皆が等しく圧倒的な物量(時間)を勉強にかけるものだから、私がどれだけ物量(時間)を増やしても追いつけるはずがない。
むしろ他人との差を嫌というほど実感させられて自分の無力さ、無能さを再認識させられる。
何とかして追い付こうと必死で授業に食らいつこうとするも分からないので、理解できない点を講師に質問する。
他の優秀な子を教え慣れている講師からすると、そんな不出来な子の存在がそもそも理解できないのだろう。
真面目に授業を聞いていないんじゃないか?
宿題をサボっていたんじゃないか?
そんな邪推をされて、出てくる発言がこの発言につながってくる。
なんでそんな簡単な問題も分からんねん!!
あんたは、授業をちゃんと聞いてたのか!
この発言に晒され続けると、心を守るために脳が機能停止してしまう。
機能停止した脳に進度の早い講義が続き膨大な情報量が追加され続けるので、まったく処理しきれず、脳がパンクする。
そして、文字が頭に入ってこない。
一日中頭痛に悩まされ、寝て起きても、全然眠った気がせず、疲労感は全く取れない。
相変わらず分からない点がたくさんあるのに、誰にも質問できず、どうして良いか分からない。
分からないと言えば怒られるだけなので、仕方なく分かったフリだけする。
表面的には何事もなかったかのように振舞うけど、当然、テストでは全然点数が取れない。
ただ、内心は気が気ではない。
毎日が頭痛とイライラと無力感に晒され続ける。
叫びたくなるような悲壮感を持っているけど、誰も理解してくれない。
研修講師を続ける理由
私が研修講師を続ける理由がここにある。
私は、『子供の頃の出来の悪い自分』を助けたいのだ。
私が、行う工夫の数々は全て、『子供の頃の出来の悪い自分』に理解してもらい、楽しんで学んでもらうために考えた結果だ。
学ぶことは苦しいことじゃない、楽しいことなんだよ。
そう思ってもらえるにはどうしたら良いか。
いつも試行錯誤している。
時々、バカな夢を見る。
今の私が子供の頃の私を教える夢だ。
これこそ私の希望だった。
もし願いが叶うなら、私は子供の頃に、『今の私』に教わりたかった。
理解が追い付かなくても、
人よりも時間がかかっても、
人ができることをできなくても、
大丈夫だよ!
と言ってあげたい。
ゆっくり1つずつ時間をかけて理解できるまで焦らず待ってあげたい。
安心させてあげたい。
この空間は否定されることがない。
この先生は私を否定してこない。
そういう安心感を持てる場でありたい。
学ぶ時に一番大切なことは、理解力でも頭の回転でも無く、『安心できる場』であると思っている。
安心できる場
- 人格否定されない
- 侮辱されない
- 怒られない
つまり、精神的にストレスを与えられないこと。
これが『安心』であり、学ぶときに何より大事だ。
安心できないと心がザワついて、集中できない。
脳は想像以上にストレスにパワーを使う。
だから、私が研修講師として人を教える仕事をする中で、絶対に気を付けていることが、『受講生さんの名誉を傷つける行為をしない』ということだ。
名誉を傷つける行為とは、
人前で罵ったり、
できないことをバカにしたり笑いものにすることだ。
さらに、積極的に発言して、回答してくれた内容が誤っていたり、万が一に大きくズレた回答であっても、必ずその中から良い意見を見つけ、そこを認め、賞賛するようにしている。
目的は、受講生さんが安心して受講できる環境を作るためだ。
考えてほしい。
発言した内容を否定されて人前で厳しく追及されたら話す気分が萎えるだけでなく、不快感で学んでいることそのものへの興味も失せてしまうはずだ。
厳しく指導することをモットーとする先生もいるが、私は全く逆だ。
人は認めて、賞賛し、伸ばすべきだと確信を持っている。
ただしその時にもポイントがある。
表面だけ取り繕って認めるフリをしても大人は見抜かれてしまう。
だから、
心の底から認めて、賞賛するのがポイントだ。
そんな器用なことできないよ
と言う人もいるが、私はできる自信がある。
その理由は、
受講生さんは皆、私よりずっと優秀という確信があるからだ。
私は自分が理解力も頭の回転も記憶力も悪い人間であることをハッキリと自覚している。
それでも私が講師をできるのは、私が教える範囲については、たまたま私の方が知見があるから講師役をしているだけだ。
その他の分野では立場が逆転して教えてもらう立場になることなんて当然にありえる。
むしろその方が圧倒的に多いだろう。
だから、受講生さんが一見、的外れなような回答をされたにしても、その方がご自身のこれまでの経験と学びにより発せられた言葉であるなら、そこに何かしらの示唆や意図があるはずだ。
そう考えて、受講生さんの発言は、私が話すとき以上に集中して聞きながら脳をフル回転させて、その真意を探る。
実際、これまで何千人と教えてきたが、真面目に講義を聞いた上で、発言してくれた人の中でまったくの的外れな回答をする人は一人も居なかった。
そう考えると、研修講師に必要なスキルは、『教える技量』だけではないことが分かる。
講義は総合力だ。
受講生さんが安心できる場を作り、
講義に耳を傾けてもらえるよう受講生さんと信頼関係を築き、
教える技量があって、
その後に自発的な学びにつながるよう心に火を灯せること。
このどれが欠けても講義は完成しない。
そう考えると、まだまだ改善できる余地はたくさんある。
天職はトラウマの裏に隠れていた
こうした工夫や改善を続けられるのは、振り返れば子供の頃のトラウマのおかげだ。
辛かった記憶があるから、同じ思いをしてほしくないという強烈な想いが心にあり、自分の仕事への熱意につながっている。
あくまでも1つの例だが、天職を探すとき、過去の辛かった記憶をたどり、面と向かうのも良いかもしれない。
だから、私は自分探しの旅というものには反対だ。
外の世界を探しても『自分』は見つからない。
探すなら内なる世界だ。
そう考えると、自分の足りない才能すら、逆の方向から見ると別の才能になる。
私の場合の足りない才能は、『理解力』だった。
表:理解力が悪い
↓
裏:人が理解できていない時、どこでつまづいているのか分かる
私は、理解力が悪いおかげで、受講生さんが分からない点が分かる。
だって、私も分からなかったから。
そのおかげで、相手に分かりやすく解説し、楽しく学んでもらう工夫ができ、やる気に火をつけることができる。
手前ミソだが、これは教えるという仕事をするうえで、欠かすことのできないユニークスキルだ。
自分の足りない才能は、別の才能の裏返しである。
だから、自分の辛い記憶や足りない才能を嘆く必要はないかもしれない。
全てがそうとは限らないだろうけど、一度、真剣に自分の過去と才能を直視してみることをおススメする。
言われて辛かったことは何ですか?
苦手なことは何ですか?
個別具体的な出来事を思い出して、そこから原因まで探ってみてほしい。
辛い思い出を呼び起こすことになるかもしれない。
でも、別の才能が見つかり、天職に出会える可能性も大きい。